先日、玉屋物のオーナーYさんよりメールを頂戴しました。
「お礼とお詫び」と題されたそのメールには、新たにお求め下さった玉屋物をとても気に入って下さったお気持ちを、そして以前にお求めいただいた玉屋物を紛失してしまったことを申し訳ないとお伝えくださる内容でした。
和の大きなスギライトと龍の水晶のブレスレットを昨年秋、出雲大社に参拝中に紛失しました。水晶をはめこんで止める蜜蝋の輪が多少やわらかくなってはいましたがゆるゆるというほどではなく、本当にまったく気付きませんでした。
それから、大分前になりますが女王のようなアメトリンを、これは購入させていただいてかなりはやい段階で落としました。外出先につけて行って、帰って上着を脱いだらなかったというような状況でした。
どちらもかなり探し、経路の交通機関、寄った場所を再度探す、電話で聞くなどし、警察にも届けましたが出てきませんでした。
本当に不注意で申し訳ありません。どちらもパッと目立つ、見る人が見ればもちろん、普通の人が見ても個性的なすばらしい石だとわかるものなので誰かが拾って所持しているかもしれません。
アメトリンを購入したときは、自分が苦しくて仕方がなかったときで、紛失は、えゐちさんに申し訳ないのと同時に、石に「捨てられた」感じがし、なかなか事実を口に出せず、お詫びもできませんでした。
私はこのメールを拝見して、お代をお支払い頂いてお求め下さったYさんには申し訳ない気持ちを感じつつも、出雲大社でなくされたというお話に胸の奥が喜びでググっと震えるのを感じました。
あの神々の集う大社、あるいはそのエナジーを纏ったYさんの旅のどこかで『玉屋物が召された』という感覚があって、それと同時に、なくされた玉屋物をYさんがどれほど大切にし、そのYさんの深さの分だけ玉屋物が「供物」として認識され引き換えにその出雲の旅から大きな何かをお持ち帰りになっているのだ、と、それがイメージされて仕方がなかったのです。なくされたどちらの玉屋物も、Yさんがお選びになった玉屋物は瞬時にYさんとリンクして必要な「行動」にでていると感じずにはいられませんでした。
お求めくださる方によって、時折玉屋物の石はこういう仕事をしているようです。それは私が意図しているのではなく、やはりお求めくださった方の、つまりは「あなたの石、お預かりしています。」と私が付けた玉屋のサブタイトルのような出来事が実際に起こっているのだということを、玉屋物のオーナーさんたちによって教えていただくのです。ここまで玉屋物とリンクしてくださると、私が思うにもう「石の行動」を止める事はできず、 石はそれを身につけて下さる方に必要な行動をしているのだと感じるのです。
私の手から離れた玉屋物について私はこうしろああしろということは全くありませんが、願わくば、「なくしてしまった」という私への申し訳なさや残念なお気持ちを(もちろん惜しんで下さるということは製作者のアタシにはとても嬉しいことです!)もう一段踏み込んで、「私の分身が旅立って、その分身の大きさに見合うだけの、今自分に必要なエナジーがもたらされている」と、なくした玉屋物をきっかけに、宇宙(そら)に向かって感謝していただけたらと思います。
お求めくださった方の手を経てその方のエナジーを纏った玉屋物の石たちをどなたかがどこかで手にしているとしたら、それはまた必要な人のころで必要な旅をしているのかもしれません。カルマというものは、その人にとって意味のある場所にいくだけで、あるいは、ある人とただ道ですれ違うだけでも、ちょっと眼をあわせるだけでも、その人が意識のレベルで感じる感じないに関係なく解消されるものもあるといいます。あなたの手をへた石たちが新しい不思議で豊かな旅をしているとイメージして、その石の旅の豊穣を祈るのもまた、大きく自分を愛する一つの方法かもしれません。
同じメールでYさんはこのようにもお伝えくださいました。
今はその当時の苦しかったことを乗り越えて、次の次のステージにいます。両方ともぞくぞくするような美しい生命あふれる作品でした。しかし、しばらく私と一緒にいてくれて、ありがとうございますとも言いたいです。
四月からは新しい職場へ移ります。今度はラリマーとスギライトといっしょに頑張っていくつもりです。
やっぱりYさんの元へ嫁いだ玉屋物は「いい仕事」をしたのだと思います。こうした素敵なお話を教えていただくにつけ、製作者として身が引き締まるのと同時に、ああ自分はなんていい手仕事を選べた事だろう、と感謝せずにはいられません。
2つのブレスレットの紛失にはピンと来るものがあったというYさんと新たにお届けしたラリマーとスギライトのブレスレットが迎える新しいステージの豊穣を心から祈っています。