11月からの新生活は現在、5猫と私の暮らしです。
多くの時間をかけ、充実した経験と対話によって、私と夫にとっての『円満』とうものがどういうものか、『夫婦』というものに付与されるあらゆる縛りをはずして二人で追求した結果、私たちそれぞれの人生の次のステージには別々に暮らすことが最もリラックスした関係をもたらし、自分の人生により集中力を持って臨めるという結論を得たのでした。
共に暮らす8猫にもこの結果を伝え、猫たちの気持ちを
アニマルコミュニケーションによって聞いてみたところ、団長は夫に対して「オレ・オマエ」という深い同志意識で繋がっていて夫と生活することを強く望んでいたのでその気持ちを尊重し、夫は団長と、私はまずは5猫と暮らし、後の2姉妹は2猫の様子を見てどちらと暮らすのが良いのか見極めてから決めることにして今は夫の所にいます。
この私たちの選択は、多かれ少なかれ結婚生活に悩む友たちに、多くの場合は衝撃を与えました。主に私と夫がとても仲がよく別れということからもっとも遠い夫婦と思われていたからだと思いますし、そういう意味では私達夫婦は一度も仲が悪くなったことはなく今も仲はよく、だからいっそう私達を知る人たちを驚かせたのだと思いますが、その中でも派生的に、特に子供がいる友の中には私のこの選択の影響を受け「自由」という言葉を使って自身の離婚を語る人もいました。
『自分の人生を生きるために、自分の思うように、誰からも縛られず、生きる』。正論で美しく、一見とてもポジティブな姿です。けれどここには自分が過去にした選択の責任は語られておらず、現在を否定するネガティブさに溢れています。自由ということは選択できるということと同義だと思いますが、これは自分だけでなく自分の選択に関係する全てに等しく与えられるべき権利です。しかし唯一、『子供』という存在には、子供が自活できていない場合、その権利の平等は存在しません。この場合、過去に子供を生み育てるという選択をした責任はまだ継続している、ということだと私は考えます。子供のために不満な今を継続しているのではなく、自分が過去にした選択の責任が果されている過程であり、怠惰によるものではなく現状が動かないということは人生にとってその状況をまだ経験する必要があるから動かないのであって、子供がいるいない、未婚既婚である、男である女であるというような枠組みは自分自身を生きられないという理由にはならず、そうした付加的要素の核にある自身の本質が自らによってクリアされることによって初めて、次の選択の扉が見えてくるのだと思うのです。
私達がお互いの生活をセパレートすることを考え始めたのは5年ほど前のことです。言い換えれば、5年の歳月をかけて自分達の責任を果たすためのすべきことをなしてきたからこそ、たとえば今回のことでいえば新居を見つけてくれる友と出逢うとか、これまで共に過ごした時間の中身を相手に責任転嫁したりすることなくお互いの人生を応援しあえるようになった、というところに到達できたのであって、5年前にそれが今だと解っていたわけではもちろんなく、その時々はむしろ闇雲に近い心境でただただ目の前の一つ一つを何度も気持ちを取り直しながら積み上げて取捨択一し、それが知らず知らず責任を果たすということにつながり、今ようやく次の扉がそれぞれの前に開いているというだけのことです。それは決して私たちにとってはドラマティックなことでもセンセーショナルなことでもありません。
新居での生活はとても楽しみだし、新しいことはいつも心躍ることですが、それと同時に私たちはこれからの10年間でどういう自分を構築するのか、していきたいのか、ということにすでにシフトしています。そしてこれまで一緒に過ごした19年の時を経てこれからの10年を、日常の煩雑さにまぎれることなく語り合える夫という名の親友を得ていることを何よりも幸せに思っています。
選択し責任を果たし扉を開く。小さく大きくその繰り返しが自分を思わぬ場所に連れて行くものだなぁと今改めて思っています。